航空学生の1日

「第1初級操縦課程(その3)」

 パラシュートとディンギ(救命浮舟)を背負い左後縁かḀT3に乗り込む。  前席シートの上に立ち両手でキャノピーフレームを掴み、ディンギを正しい位置に収めながら腰を下ろす。 整備員がショルダー・ハーネスを座 席の後方から引き出し、丁寧に両肩からたらしてくれる。私は両腰からシートベルトを取り出しショルダー・ハーネスと接合し、力一杯締め付ける。  続いて整備員がヘルメットを渡してくれる。識別帽((87-Cの刺繍 が入った赤色の帽子)を脱ぎヘルメットをかぶる。  手の甲で額の汗を拭いながらヘルメットを装着し顎のベルトを留める。ヘッド・セットのジャックを刺し、途中で抜けない様にパラシュートのハーネス部分に装着する。 整備員はここまでのパイロットの操作を見届け、装着状況を確認し 機体から離れる。  先ずはシートの高さ(上下のみ)調節だ。シートの調節は、計器板の上部に手を掛ける穴が空いており、左手を掛け力を入れて自分の全体重を預ける。 体を浮かせ右手で調節レバーのロックを外し、一度最下方まで下げてゆっくりと一段づつ上げて調節をする。  最初の頃は左手の掴みが甘く、調節レバーのロックを外すと一気に最下方までシートが落ち、 両足のかかとをシートで挟んだものである。 シート調節も力ずくで、「パワー・シート?」ではなく「パワーがいるシート」だった。  この調節をおろそかにすると後で大変なことになる。目の高さが変わるため、航空機の姿勢の判断に重大な影響を及ぼすのだ。 毎回同じ高さになるよう、穴の位置を覚えておかなければならない。  ニーボードを左股に装着し「インテリアー・インスペクション」(内部点検)を行う。 「内部点検実施します。」 肉声で後席の教官に聞こえるよう大声で発唱する。 すべての項目をチェックリストを見ること無く、お経のように暗記し発唱しながら点検を行う。   1 シートベルト&ショルダー・ハーネス  ・・・ アジャスト&ファッスン 2 シート ・・・ アジャスト 3 ラダー・ペダル ・・・ アジャスト 4 ヘルメット&マイク ・・・ セット 5 コントロール・チェック 「コントロール・クリアー・サー」 操縦桿を前後左右大きく一杯に動かすため後席教官に了解を得る。  「クリアー」  コントロール ・・・ フリー 6 ガス ・・・ オフ 7 ブースター ・・・オフ ・ ・ ・ ・ ・ 35 サーキット・ブレーカー ・・・ オール・イン やっとエンジン・スタート前までこぎつけた。 言うまでもなく汗びっより!   次はエンジン・スタートだ。              

Read more...

「第1初級課程(初飛行その2)」

「第1初級課程(初飛行その2)」 「お願いします!」と元気よく教官に敬礼し着席する。プリ・ブリーフィン グの開始だ! 「本日のミッションは・・・・。」 「訓練主眼は・・・・。」 「訓練目標は・・・・・・。」 「細部訓練内容についてブリーフィングします。」 「本日のエリア(訓練空域)は『No.5』。」 「離陸後、ヘディングを『030°』、高度は2,500フィートでレベル・オフ をし・・・・・・。」 「最初の課目は・・・・。」 ・ ・ ・ ・・ 「帰投後、着陸はフル・ストップします。」 「以上です。」 と、約10分程で訓練の内容を説明する。 続いて教官の質問に入る。 教官は訓練を行う前に、学生の訓練課目等に関する理解度を確認し なければならない。これは、航空法に基づき義務づけられている行為なのだ。 確認を怠れば教官は航空法違反となる。 航空自衛隊の飛行教育は、国土交通省「指定養成施設」と呼ばれる操縦教育の養成施設に指定されている。 一部の適用除外を除き、航空法に基づき操縦教育を受けるのだ。 私の担当教官は、比較的質問が好きな教官で20分程の質問攻めに あった。半分程しか答えることができなかったように記憶している。 当然、知っていなけḃばいけない事項が答えられないと、厚い評価表綴 りなどが重力以上の力で頭上に降ってくる。 約30分程の「針のむしろ」に座った状態から脱出すると、次はいよいよフライトだ。 「救命装備保管室」でライフジャケット、パラシュートを装着し、ヘルメットと手提げ袋を持って航空機へと向かう。 ランプ(駐機場)地区では帽子のあごひもを装着し、物を飛ばされなれないように着意しなければならない。 航空機に到着すると、3名の整備員が我々の到着を待っていた。元気よく「お願いします!」とエンジンの音に負けないぐらいの声で敬礼する。 ディンギ(救命ボートとサバイバル・キットが収納されたコンテナ)とパラ シュートを結合し、操縦席の真横で翼前方の定位置に置いて外部点検 を開始する。 「外部点検実施します!」と教官に報告し始める。 「ガスト・ロック・アンロック」 「コントロール!」 大きな声で航空機の全周に注意喚起を促す。 操縦桿を回し引っかかりがないことを確認する。 いよいよ外部点検の開始だ!!    T-3の映像が無いためT-7の映像になっています 「第1初級操縦課程(その3)」 飛行機(Tー3)の左翼後縁から外部点検を開始する。 各点検個所の部品名称を一つ一つ大声に出し、発唱確認を行う。 1 フラップ 2 エルロン 3 ・・・????名前が出てこない???? エルロンの端に装着されたワイヤー(放電策)を触りながら名称を思い出す。 教官に「何やってんだ!!そんなに何度も引っ張ったら外れてしまうだろう!!」と怒鳴られる。 「名前を忘れました!」と大声で返答をする。「スタティック・ディスチャー ジャーだ!!覚えておけ!!」とまた怒鳴られる。 4 ウイング・チップ 5 ナビ・ライト  6 リーディング・エッジ 7 リフト・ディテクター  7 フューエル  8フューエル・キャップー・アイ・マークーオッケー  9...

Read more...

「第1初級操縦課程(着隊)」

  昭和61年4月、無事地上準備課程を修了した。これからは、3つのフ ライトコースに分かれ順に飛行訓練を開始する。 我々のコースは「87−C(チャーリー)」と呼び名がつけられ、10名はそ のまま山口県の防府北基地で、他の8名は静岡県の静浜基地で訓練 を受ける。私は、静浜基地での訓練を命ぜられた。約一週間後、制服姿で山陽新幹線に乗り山口県を後にした。  静岡県のJR藤枝駅には、サングラスをかけ制服を着た小太りのおっ さんが、マイクロバスとともに我々を待っていた。このおっさんが何者かは誰も知らない。自然にそのおっさんに吸い寄せられる様に近づき、た だ、「オッス!」と敬礼をし、バスに乗り込んだ。今から思うと、お互い何 も確認もせず、よくバスに乗せ、また、我々もよく乗ったなと疑問に思う。何とも異様な光景であったことであろう。制服での移動ならではの 「技」であったのだ。 移動中おっさんは無言であった。我々の緊張し話ができなかった。バス が基地に到着し、おっさんから初めて指示が出た。「部屋に荷物を置き、 体操服に着替えグランド集合!」。「ハイ!」我々は気合いを入れ返事をし、駆け足で移動した。 グランドに集合し、おっさんとともに隊列を組み駆け足で基地の外周を 一周した。終了後、教室への集合を指示された。 教室で待っていると、先程のおっさんが入ってきた。学生長が気合いを 入れて「気を付け!」と号令をかける。我々は「シャキッ」と背筋を伸ばし姿勢を正す。「87−C総員8名!集合終わり!」と報告する。おっさんは自己紹介を始め、そこで初めてフライトコマンダー(主任教官)(以後、コマン ダーという。)であることを知るのであった。 次にアシスタントコマンダー(副主任教官)(以後、アシコマという。)から この課程についての概要と諸注意事項の説明があった。ここで、更に道程の厳しさを感じる一方、飛行訓練開始の実感とのやる気が湧いてきたのであった。 解散後、居室に戻り身辺整理を指示され、本日の移動に伴う任務は終了した。 居室は4人部屋で机が四隅に、その脇にそれぞれのベットとスチールロ ッカーが配置されていた。今までの生活からしたら天国の様な環境である。山口県で発送した荷物(段ボール2箱程度)は既に届いていた。荷物をロッカーに入れ移動は完了。夕食、入浴を済ませ居室で「ホット」息 をつく。明日の入校式に向け、制服にアイロンをかけ、革靴をピカピカに磨いた。  やっと一日が終わった〜!長い一日であった。やっと寝れる。おやすみなさいZZZZ。 明日はいよいよ入校式だ! 「第1初級課程(初飛行その1)」 飛行訓練に向け数々の準備をする中で、フライトスーツ等のパイロットだけに貸与された物品が配られた。憧れのオレンジ色のフライトスーツ(夏、冬各2 着)、フライトジャンバー、フライトブーツ、靴下、耐寒服、、フライト グローブ、航空ヘルメット・・・・。 早く着たくて着たくて気持ちだけが焦る。フライトスーツには、階級章及びネームタグを縫い付ける。 一人前のパイロットになれば、ローマ字の名前入りで鷲のマーク(航空徽章)が入ったウイングマークと呼ばれる刺繍されたワッペンをマジックテープで留める。一目でパイロットと判るのだ。 通常我々はフライトスーツ姿で基地の中を移動する。建物間の移動の際は、常に隊列を組み整斉としていなければならない。この基地は我々操縦学生を育成するためにある。 基地内の隊員は誰もが操縦学生を見ている。何処かで目に付く様な行為等があれば直ぐ に主任教官に連絡が入り厳しい指導を受ける。「87-Cの学生は最近元気が無い。」「敬礼動作が悪い。」「基地内をダラダラ歩いている。」と、いった声が主任教官の耳に入るのだ。 基地内の隊員の期待がかかっている。全隊員に見守られながら、また、全隊員で操縦者を育成するのだといった暖かい基地であったことを今でも覚えている。 いよいよ初飛行の日がやってきた。最初の訓練は慣熟訓練で評価の対象外となる。とはいえ、初めての試みでありどのような感じなのか想像ができない。これだけ準備すれば大丈夫だと思い訓練に臨んだ。 午前7時20分、朝礼の前にランプ地区で自衛隊体操(航空自衛隊独自の体操)から一日が始まる。その後、飛行隊全員の朝礼だ。飛行隊長に元気よく敬礼をし挨拶を行う。 次にウエザー・ブリーフィング(気象状況報告)を受ける。当日朝3時の地上天気図の解説から始まり850hPa上層天気図、ひまわりのレーダーエコー合成図、飛行場現況及び予報図、地上予報天気図と約15分程度の説明を受 け、疑問点等をパイロットが質問又は、解説に対すḂ意見を交わ す。 訓練担当者から飛行情報等、訓練に関係する情報のブリーフィン グを受ける。続いて、安全幹部から本日の安全に関する諸注意事項を、飛行班長からは本日の着意事項をそれぞれ指導を受ける。 最後に飛行隊長が一言、物を申される。 以上の流れで一日が始まる。 フライトルームに戻ると、アシコマ(副主任教官)、コマンダー(主任 教官)からそれぞれ本日の訓練の要領等について話がある。 次に各個別のプリ・ブリーフィング(飛行前の打合せ)が始まる。これからが学生と教官と一対一での教育訓練の始まりだ。

Read more...

創刊号「人生の転機」

「人生の転機」 男の子なら誰もが憧れるパイロット。私も例外ではなく、小学の頃から旅客機のパイロットを夢見てた。その当時ドラマで「白い滑走路」が放映されていたのを覚えている。それが影響していたかどうかは不明だが、飛行機の模型でよく遊んでいた覚えもある。 高校時代に具体的進路を決める頃、やはりラインパイロットになりたくて航空大学校を第一志望とした。また同じクラスに戦闘機パイロットを志望す同級生がいた。私は戦闘機などに全く興味は無く、ましてや軍隊(自衛隊)自体好きではなかったため眼中になかった。彼は、航空自衛隊の航空学生という制度を志望しており、私にも自衛隊を勧めた。 当時、航空大学校の受験資格は高校卒業以上であり、第1次(学科)、第2次(身体検査)、第3次(操縦適正)と3段階の選考試験があった。航空学生の受験内容も、学科試験レベルの差はあるものの、航空大学校と同じ3次試験まであり、全般に試験時期が早かった。高校のクラス担任から、「試験の練習になって良いじゃないか?」と航空学生の受験を勧められたのが事の発端でる。 航空大学校の一次試験では残念ながら失敗!在学中に再度受験するつもりで、取り敢えず大学進学のため受験勉強に取込む中、肺炎を患ってしまった。絶対安静だったため布団の中で航空雑誌を見てたその時、今まで全く興味がなかった戦闘機 がやたら目に入ってくるではないか。実はもう既に、全く行く気 もない航空学生の試験は、2次試験まで合格通知をもらっており、3次試験の2、3週間程前だったと思う。『航空学生に入隊を決めればもう大学の受験勉強は・・・。』と、その時ふと脳裏をよぎったことが、大学受験(関東の5校程の私立大学)の敗因だったことはいうまでもない。合格した道はただ一つ「航空学生」のみだった。大学浪人はしたくなかった。「軍隊であったことの再認識」 昭和59年3月、こうして私は航空学生第40期生として人生の転機を迎えた昭和59年3月、私は晴れて航空学生第40期生として航空自衛隊に入隊をした。 高校を卒業後約1ヶ月余りのぬるま湯生活とは打って変わって、入隊式を境に私の人生は一転した。  頭は丸坊主、起床は6時。上半身裸体で全速力で飛び出し 毎朝グラウンドで整列点呼、その後駆け足。建物間の移動は 常に整列し隊列を組み駆け足。毎食事は数分間。午前中は学 科教育。午後は教練及び体育訓練(ほとんど駆け足)。入浴 はカラスの行水並み。入浴直後には毎晩隊歌指導(先輩による軍歌のお稽古)。これが一番辛かった。 この件の細部につ いては、国防機密につき公開できないのでご了承いただきたい。消灯は10時10分で、ラッパの音とともに電灯が消える。最初の2週間程は柵の外に出ること(外出)はできない。次週からは土曜日の午後と日曜日だけ外出が許可される。 当然、門限があり、外泊は許可されず土曜日は午後10時、日曜日は午後9時までに帰隊完了しなければならなかった。もちろん、テレビなど見る暇もなく、芸能界などとは無縁となり柵の外(一般社会)では何が起きてるのすら判らなかった。  こんな地獄の様な生活がゴールデンウィークまでの約1ヶ月続 いた。自分でも良く生きてたなと・・・。今思えば、夢を同じくする同期生がいたからこそやって来れたんだ思う。 ゴールデンウィーク以降は先輩による毎晩の隊歌指導が無くなっただけで、毎日、体力気力の練成の日々をおくっていたよう な気がする。 夏には洋上を2時間かけての遠泳訓練。秋には60km行軍。2 日間夜通し山中での戦闘訓練。年中駆け足。・・・・。  一言で言うと、映画「愛と青春の旅立ち」のような日々が2年 間続き、入隊した事を後悔する暇もなく、軍隊であったことを再 認識する毎日であった。もう一度やれと言われても、いくらお金 を積まれようが2度とやりたくない2年間であった。しかし、そ れだけに私のファイターパイロット人生の強固な土台となった期 間であり、その後に待ち受けている厳しい飛行訓練の素地になったと確信している。 「やる気!元気!負けん気!」これが航空学生の心意気だ。 こうして、2年間の地上教育課程(航空学生教育隊)を終了 し、念願のフライトコース(飛行訓練)に進む運びとなった。
 
       「地上準備課程(習志野編)」  昭和61年3月、晴れて航空学生教育隊の課程を修了し、コース 名「87-C」として飛行教育が始まった。 まず初めは、地上準備課程の履修であり、飛行教育を受けるにあたって必要な落下傘降下訓練及び航空医学を学ぶ課程である。 期間は約1ヶ月弱。同期生が3つのコース(18名程度/コー ス)に分かれ、実用的な訓練が開始される。  落下傘降下訓練は、泣く子も黙る陸上自衛隊の落下傘降下部隊 である第1空挺団(習志野)に、約2週間の期間の教育入隊を命ぜられる。ここでは、緊急脱出時に落下傘降下ができるまでの基本的操作要領を、精神的及び肉体的な訓練を主体として体得させられる。  第1空挺団では、空挺カット(超短いスポーツ刈りに似たヘアースタイル)で筋肉モリモリの陸自のおっさん(教官)達が我々の到着を待ち構えていた。地獄の再到来であった。毎朝、点呼後には上半身裸体で15分程のランニング。列を組み大声でかけ声をかけ、陸自のおっさん達にどやされながら走っている光景が今でも脳裏に焼き付いて離れない。  訓練は第一段階と して、運動場で着地姿勢をとり飛び跳 ね、何度も転げ回ることから始まった。 両腕をまげて両耳に付け、頭部を保護する姿勢をとる。足から着地し、左右どちらかに倒れ膝の外側、おしり、体側、肩の順に接地し衝撃を和らげるのだ。 次に、30センチ程の台上から飛び降り同様に転げ回る訓練。次は50センチ程からと、徐々に高い所からの着地訓練に移行した。  第2段階として、飛び降り台(高さ12メートル)からの飛び 降り訓練。人間が最も恐怖と感じる高さが12メートルなのだそうだ。飛び降り台の上方にはケーブルが渡されており、落下傘の ハーネス(体に装着する帯状の装具)を装着し、飛び降り後は滑車の下に人間がぶら下がる格好となる。一応、下方にセーフティネットを張ってはあるものの、確かに一番怖かったと記憶している。  最終的には、80メートルの降下塔(遊園地にありそうな訓練用の施備)で、地上から落下傘を開いたまま宙吊り状態で80メートルまで上げられ、実際に落下傘降下し操作する訓練を受けた。 修了式前夜に、陸自のおっさん(教官方)による送別会が催された。陸自おっさん達の半端ではない酒の飲み方に驚きを隠せな かった。  こうして無事修了式を終え、立川市にある航空医学実験隊へと移動した。   「地上準備課程(立川編その1)」 陸上自衛隊習志野駐屯地を後に、我々一行は航空医学実験隊(立川 基地)へと向かった。 ここでは航空生理訓練と呼ばれる訓練を約2週間受けた。訓練には、大きく分けて耐G訓練と低圧訓練の2種類がある。 まず初めに座学教育を受け、その後訓練施設を使用し耐G訓練を受けた。コックピットに見立てたカプセル状のゴンドラを、半径10メートル程のアームで振り回し遠心力を発生させる。  ちょっとしたテーマパークにあるアトラクションの様な機械的な乗物を想像していただきたい。 ゴンドラは2軸がフリーとなり、遠心力が常に被訓練者の頭上かから下へ と、いわゆるプラスの”G”がかかる様に仕組ままれている。  当然、発生する”G”は管制室で制御することができ、ゴンドラ内の被訓練者の様子を モニター画面で観察しながら訓練を行う。被訓練者は、発生した”G”に対し、呼吸法を含む腹部への力のかけ方を適切に行える様に訓練する。腹部に力が入っていないと急激に頭部の血液が下方に下がりグレイ・アウト”と呼ばれる現象に陥いる。 また、”G”がかかった状態で少しでも気を抜いてしまうと目を開いているにも関わらず視野が狭窄する。更に進行すれば”ブラック・アウト”と呼ばれる現象に陥いって視野が無くなり真っ暗になる。そして気を失ってしまう。  この状態では全く意識が無く、眠 っている様な状態である。これが”Gロック”と呼ばれている現象だ。 ”Gロック”は、無我夢中で攻撃位置に占位するため敵機を追いかけ、ただ闇雲に操縦桿を引っ張って”G”をかける時などに起きる現象である。 特に高性能なF−2、F−15では推力比が高いため、格闘戦になってもエネルギーがなかなか減らないので注意が必要だ。 最近では機体で制限された”G᷿"よりも人間様」の方が先に参ってしまう。”G”がかかった状態で息を止め、腹部に力を入れて耐えることは、普通の人なら問題なくできるであろう。 問題は、如何に呼吸をしながら腹部 に力を入れるかなのだ。例えば「7G」がかかっていれば自分の体重の7倍の加重が身体にのしかかる。普通に呼吸をしていれば、息を吐いた瞬間腹部の筋力は弛み、頭部の血液は一気にの下がりグレイ・アウトに陥るであろう。  息を吐く時間をできるだけ短く、引き続き吸う時も短切に3 〜4秒に一回のサイクルで呼吸を行う。 ここでは、自分が何”G”まで耐えられるのか(耐G性)を確認するとともに、実際に”Gロック”まで体験をさせられる。  私は「7G」を43秒間耐え、最大Gは「7.2G」と記録(証明書)に残っている。たぶん、「7.2G」で気を失っていたのだと思う。この時は耐G性を向上させる「Gスーツ」は装着すること無く訓練していたと記憶している。  こうしてファイターパイロットらしい世界に足を一歩踏み入れた。 次回は低圧訓練だ! 次号へ  

Read more...